ボビー・ジョーンズ/1930年グランドスラム ── ゴルフ史唯一の偉業はいかにして達成されたか

1930年9月27日、フィラデルフィア郊外のメリオン。

28歳のアマチュアが、決勝戦11番ホールで対戦相手の最後のパットがカップに向かって転がっているうちに、相手自身が握手を求めてきた瞬間、ゴルフ史は塗り替わった。
年間グランドスラム。一年のうちに英米のオープンとアマチュア選手権を独り占めにしたのは、ボビー・ジョーンズただ一人である。
以後ほぼ一世紀、誰もこの偉業に届いていない。

本稿はその年の五月から九月までの、四つの大会のドラマを追う。

渡英前夜、オッズは50対1

1930年4月、ジョーンズはアメリカン・ウォーカーカップチームのキャプテンとして英国に渡る。
前年1929年の全米オープンを制してすでに頂点にいた彼は、その年の四大大会すべてを一年で獲るという目標を、内心に定めていた。

賭け屋ロイド社が提示した「グランドスラム達成」のオッズは50対1。
冷静に見れば、不可能に近い数字だった。同社は同時に「現実的に照らしてみれば『120対1』程度ではないか」とも語っていた、と書籍は伝えている。
賭け屋自身、ジョーンズに四連勝のチャンスがあるとは思っていなかったのだろう。

1930年は世界大恐慌の最中である。
前年10月、ニューヨーク株式市場の大暴落から、アメリカは未曾有の不況に沈んでいた。
失業者は街にあふれ、人々は明るい話題に飢えていた。そのときジョーンズが、英国へ向かう船上にいた。彼を「英雄」に押し上げる土壌は、すでに整っていた。

セント・アンドリュース ── 5月、全英アマ

ジョーンズが残していた唯一のメジャーは、全英アマだった。
彼は19歳の1921年、この同じセント・アンドリュース・オールドコースの全英オープン第3ラウンド途中に、スコアカードを破り棄権している。
9年を経て、ジョーンズはこの地に戻ってきた。

大会は1930年5月26日から31日まで。8回戦のマッチプレー、決勝のみ36ホール。
ジョーンズが最初に出会ったのは、第1回戦のシド・ロベーア。
初対面の相手だった。彼を知る者に聞くと、どんなホールでも「5」以上をたたくのはごくまれな、均整の取れたプレーをするという。
「彼に勝たなければグランドスラムは『死産』に終わる」── ジョーンズは改めて決意の程を固めた、と書籍は伝えている。

準決勝の対戦相手は、前年のチャンピオン、シリル・トーリー。
1930年全英アマの最大の山場が、ここで訪れる。
ジョーンズとトーリーの18ホールは、6度のマッチイーブンを繰り返し、決着が17番、悪名高きロードホール(466ヤード)に持ち込まれた。
グリーン右側には道路が密接し、左側には魔性のロード・バンカーが口を開ける。
ジョーンズはバンカーを越える攻めを選び、トーリーは道路側へ。
両者ともパー。18番でハーフ。延長19ホール目、ようやくジョーンズが勝ち上がる。

伝記作家O.B.キーラーは、この試合の印象をのちにこう振り返ったと、評伝に引かれている。

「それは1対1の凄絶な死闘というよりはむしろ、卓越した名優同士が息もつかせぬ演技力で壮大な野外劇を繰り広げているように見えた」
── O.B.キーラー(杉山通敬上掲書、p.97)

決勝の36ホールマッチを、ジョーンズは7アンド6の大差で押し切り、9年越しの和解と勝利を、同じオールドコースで果たした。

ホイレイク ── 6月、全英オープン

5月31日に全英アマを制したジョーンズは、6月、リバプール郊外のロイヤル・リヴァプール、通称ホイレイクへ移動する。
全英オープン。6月18日から20日までの三日間、72ホールのストロークプレー。

エントリー296人のうち、賭け屋の一番人気はジョーンズで10対1。
レオ・ディーゲル14対1、ホートン・スミスとアーチー・コンプストンが16対1、ヘンリー・コットン20対1、マクドナルド・スミス40対1。
ジョーンズは「本命」とはいえ、勝つ確率がきわめて高いとは見られていなかった。

第1ラウンド70、第2ラウンド72。
前半36ホールを「142」で首位通過。後半は1日で36ホール消化する変則日程である。
第3ラウンドにアーチー・コンプストンが「68」を叩き出し、ジョーンズは「74」、コンプストンが1打リードで最終ラウンドへ。3番人気が1番人気を1馬身放した格好だった。

最終ラウンド。
8番ホール、482ヤード、ホイレイクの中ではバーディが取れる距離の短いパー5。
ジョーンズは砲台グリーンのエッジ付近から、上のスロープの頂点に当ててボールの勢いを殺して転がすアプローチを試みたが、キャリーが足りずに後戻りしてしまう。
やり直す。
打ち直す。
スコアは「7」── 後に「アングリー・セブン」(怒り狂った7)と呼ばれる悪夢のホールである。
彼の両耳は真っ赤になっていた。十中八九は生来短気な男だ、とキーラーは書いている。

しかし16番、ホイレイクの最も長い580ヤードのパー5で、ジョーンズはマクドナルド・スミスから贈られた特殊な兵器、コンケーブ・サンドウェッジを使う。
バンカーを救う。打面が湾曲したこのウェッジは翌1931年、R&Aがルール改定で禁止することになる。
1930年のジョーンズが使うことを許された、最後の年だった。
17番と18番をいずれも「4」で凌ぐ。

最終スコア291、パープラス3。
コンプストンは最終ラウンドで「82」を叩いて崩れる。
2位はレオ・ディーゲルとマクドナルド・スミスが、ジョーンズに2打差。
同じ年に全英アマと全英オープンを制したのは、1890年のジョン・ボール以来、ジョーンズが二人目であった。

インターラーケン ── 7月、全米オープン

帰国したジョーンズは7月、ミネソタのインターラーケンCCへ向かう。
賞金総額5,000ドルの1930年全米オープン。7月10日から12日までの三日間。

到着した日、温度計は40度近くまで上昇していた。湿度は高く、風はない。
ニッカーボッカーが汗で肌に張りつくほどの蒸し暑さの中、ジョーンズはプレーする。

二日目、9番ホールの伝説が生まれる。
485ヤード、パー5。第2打を放ったボールは池に向かって低く飛び出した。
当たれば沈む距離だ。だがボールは水面を二度、三度跳ねて、向こう側の土手に「上陸」した。
神がかりの水切りショットだった。
観衆は「リーベード・ショット」(睡蓮の葉のショット)と語り継ぐことになる。
アプローチを寄せ、ジョーンズはバーディに結びつける。

第3ラウンドで「68」。
ジョーンズは5打のリードで最終ラウンドを迎える。
だが、17番、272ヤードのパー3でティーショットが右側の窪地に落ち込んでしまう。
結局ウォーターハザード扱い。ダブルボギー。マクドナルド・スミスとの差は1打まで縮まった。

最終18番。
グリーンに乗ったジョーンズのボールは、ホールまで12メートルの長いバーディパット。
沈める。
トータル「287」、パーマイナス1。マクドナルド・スミスとの差は再び2打となり、3位はホートン・スミス。
ジョーンズはこれで2連覇、通算4回目の全米オープン優勝。記録タイの偉業である。

そして、グランドスラムまであと一つ。

メリオン ── 9月、全米アマ

舞台はペンシルベニアのメリオン。
14歳のジョーンズが史上最年少クラスで全米アマに初出場した、その同じコースである。

地元紙、メディア、ギャラリーの期待は、もはや「祝祭」の様相を呈していた。
後年、評伝が伝えるある逸話がそれを象徴している。
大会期間中、ジョーンズの担当ウェイターが、レストランで他客がスプーンに手を伸ばそうとしたところ、それを止めて言う。

「今、スプーンを使うのはおやめ下さい」
「ジョーンズさんが今、4番でパットしようとしています。スプーンを使う音が聞こえたらプレーの邪魔になるではありませんか」
「ここでスプーンを使う音が4番グリーンに届くはずはないだろうに」
「いえ、ジョーンズさんの妨げになるようなことはいっさい謹んでいただきます。もし、ご了解が得られないようでしたら、スープはさげさせてもらいます」
── 全米アマ期間中、メリオンのレストランにて(杉山通敬上掲書、p.156)

レストランの音さえ気にかける街の人々の心の中で、ジョーンズはもはや一介の選手ではなかった。
1回戦S・サザートン、2回戦F・フッブレッシェル、3回戦F・コルチマンを6アンド5、準決勝はJ・スウィートーザーを9アンド8で下す。

そして9月27日、決勝。
相手はユージン・ホーマンス。ハーバード大学を卒業したばかりの若者であった。

ギャラリーは18,000人。
秩序維持のため、警備役の水兵がジョーンズを守る。

午前の18ホール、ジョーンズは「72」、ホーマンスは「79」。差は7アップ。
午後の数ホールでさらに2アップを加え、差は「9」に広がった。
ジョーンズが11番ホール、378ヤードのパー4のグリーンへ向かう。
ホーマンスの最後のパットがカップに向かって転がっているうちに、ホーマンス自身が握手を求めてきた。
8&7、ジョーンズの勝利。

その瞬間、メリオンの観衆と水兵の囲みの中で、年間グランドスラムが完成した。

空前の騒ぎ

ニューヨーク・サン紙のジョージ・トレヴァーは、この偉業を「インプレグナブル・カドリラテラル(難攻不落の四辺形)」と呼んだ。
同時にアトランタの新聞記者O.B.キーラーは、トランプのブリッジ用語を借りて「グランドスラム」と命名する。

ジョーンズはニューヨーク・ブロードウェイで二度目の紙吹雪パレードに迎えられ、地元アトランタもまたパレードで彼を待った。
1923年から1930年までのわずか八年で、彼は13のメジャータイトルを獲得した。
全米アマ5、全米オープン4、全英オープン3、全英アマ1。ストロークでも、マッチプレーでも、英国でも米国でも、彼に勝てる人間はもはやほとんどいなかった。

1930年の四つのメジャーは、当時の四つの最高峰だった。
マスターズはまだ生まれておらず、ジョーンズはアマチュアであるためPGA選手権の参加資格がなかった。
彼が獲り得た最大のものを、彼は獲った。そして、競技ゴルフの世界から身を退いた。

時代が下って、全米アマと全英アマがメジャーから外され、代わりにマスターズとPGA選手権がその座に就いた。
現代のグランドスラムは、ジョーンズの1930年のそれとは違う四つの大会で構成される。
だからこそ、彼の偉業は今もなお比較を許さない。
ベン・ホーガンが1953年に三冠を取った時も、タイガー・ウッズが2000-2001年に四連勝した時も、ジョーンズが歩いた1930年の道とは、別の道のことであった。

四つの会場で起きた四つのドラマ。
セント・アンドリュースの和解、ホイレイクの怒りと救済、インターラーケンの水切りショット、メリオンの軍人警備。
それぞれが一つの記事になるほどの密度を持ちながら、ジョーンズは涼しい顔で四つを束ねた。
八年で13勝を遂げた男にも、その年だけはとくに特別だった。

なぜ唯一の偉業なのか。

それは、四つの大会の名前だけの問題ではない。
当時の最高峰を、一人のアマチュアが、一年で、しかも引退前夜に、束ねきった。
この偶然と必然の重なりが、二度と起こらないだろうと多くの史家が見ている根拠である。

1930年というあの一年が、四つのコースに刻まれた跡は、もう塗り替えられることはない。
セント・アンドリュースの17番ロードホール、ホイレイクの8番アングリー・セブン、インターラーケンの9番リーベード・ショット、メリオンの11番
四つのホールに今、ボビー・ジョーンズの足跡が静かに残されている。
トーナメントで戦う者たちにとって、それは目に見えない巡礼の道でもある。


参考文献

主要参考文献

  • 杉山通敬『マスターズを創った男 球聖ボビー・ジョーンズ物語』廣済堂出版、1998年(第3章「年間グランドスラム」)

補足参照

  • 全英オープン公式サイト 1930年大会記録
  • USGA(全米ゴルフ協会)「Museum Moment: Jones Scorecard From 1930 Amateur Final」
  • USGA「Looking Back…1930 U.S. Amateur At Merion」
  • Wikipedia「Bobby Jones (golfer)」「Grand Slam (golf)」「1930 Open Championship」「1930 U.S. Open (golf)」
  • Encyclopædia Britannica「Bobby Jones」
  • Kingdom Magazine「The Amazing Mr. Jones」

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最終更新:2026年5月28日