二人の天才の出会い ── ジョーンズとマッケンジーが森の中に作ったリンクス
1930年、ボビー・ジョーンズは、その年の全米オープン、全英オープン、全米アマチュア、英国アマチュアのすべてを制した。
グランドスラム。
そして28歳の若さで、競技ゴルフの世界からあっさりと退き、故郷アトランタで弁護士の看板を掲げる。
メジャー13勝という記録は、のちにジャック・ニクラスが現れるまで、誰も近づけなかった。
だが、球聖の夢は、優勝カップの数にはなかった。
引退したジョーンズのもとには、映画会社も用具メーカーも、莫大な契約金を携えて押し寄せた。
それでも彼が欲したのは、金でも、さらなる名声でもない。
アメリカ南部に、全米オープンを開けるほどの本格的なコースを持つこと。
そこを、気の合う友人たちとのゴルフ天国にすること。
引退の前後から温めていたその夢が、一人の設計家との出会いによって、ジョージアの森の中で形になっていく。
世界一の名手と、平均的なゴルファー
球聖が設計家と初めて言葉を交わしたのは、セント・アンドリュースだったとされる。
ジョーンズがオールドコースで全英オープンを制した1927年前後のことと、金田武明氏は推測している。
マッケンジー博士はこのとき、すでに一流の設計家だった。
ジョーンズは世界一の名ゴルファーであり、マッケンジーは自分のコースをうまく回れない平均的な打ち手にすぎない。
本来なら、歯車の噛み合わない取り合わせである。
だが、二人を結びつけたものがあった。マッケンジーは、当時の難解なコースのありように批判的でありながら、オールドコースだけは「神の与えた教科書」と考えていた。
その一点に、ジョーンズは深く共鳴する。
現状に満足せず、ゴルフ本来の姿を問い、理想のコースを思い描く。
そういう相棒として、ジョーンズにはマッケンジーしか考えられなかった。
当時アメリカで最高の設計家といえばドナルド・ロスであり、ロス自身もジョーンズからの依頼を心待ちにしていたという。
それでも、球聖が選んだのはマッケンジーだった。
この設計家がいかなる人物であったかは、別の一篇に詳しい。
神の大地を造形した男 ── アリスター・マッケンジーの生涯
オールドコースが教えたこと
二人を結んだオールドコースは、ジョーンズにとって、かつて屈辱の舞台でもあった。
1921年の全英オープン。
アウトを46で折り返し、インに入っても球は思うように進まない。
ジョーンズは「こんな酷いコースに二度と来ない」とボールを拾い上げ、コースを去ってしまう。
それから6年。
同じオールドコースで全英オープンの頂点に立ったとき、ジョーンズは別人になっていた。
あの古い土地は、ほとんどのホールで攻め方を選べる。
風、地面の硬さ、グリーンの速さ。
条件が変われば、最適なルートも変わる。
キャディが指す目標すら、打ち手によって驚くほど違う。
一人は教会の塔を狙えと言い、もう一人は左奥のラフを狙えと言う。
同じホールが、まるで別の顔を見せる。
技術だけでなく、頭脳でルートを選ぶ。
その面白さに、ジョーンズは開眼していた。
攻略の道は一つではない ── オールドコースのこの思想こそ、彼とマッケンジーが分かち合った設計哲学の核心だった。やがてオーガスタに持ち込まれるのも、この「打ち手に選ばせる」という一点である。
マスターズを創った男 ── ボビー・ジョーンズ、引退の先にあった生涯
ペブルビーチの番狂わせ
二人の距離が一気に縮まったのは、1929年、カリフォルニアでのことだった。
全米アマチュアの舞台はペブルビーチ。
ところがジョーンズは、初戦であっけなく敗れてしまう。
本命中の本命が、初日に土をつけられた。大番狂わせだった。
しかし、ジョーンズはその地に残る。
コースに出れば、観客は試合そっちのけで球聖の一挙手一投足に沸いた。
彼はやむなく、一人の観客として大会を見届けることにする。
この思いがけない空き時間が、ジョーンズとマッケンジーに、心ゆくまでコース論を語り合う時間を与えた。
近くのサイプレス・ポイントは、前年にマッケンジーが手がけたばかりのコースだった。
ジョーンズはそこへ招かれ、太平洋を望む断崖の造形に魅入られる。
同行した記者O・B・キーラーは、その美しさに言葉を失った。
白い砂、紺碧の海、松の緑、そのすべてが設計のなかに溶け込んでいる、と。
語り合ううちに、二人が同じ一点を見ていることがはっきりしてくる。
コースは、できるだけ多くの人が楽しめるものでなくてはならない。
マッケンジーはそれを「ファン」と呼び、ジョーンズは「プレジャー」と呼んだ。
言葉は違っても、ゴルフを楽しむという公約数は、寸分たがわなかった。
365エーカーの果樹園
舞台に選ばれたのは、ジョージアのコースに生まれ変わる時を待っていた365エーカーの果樹園だった。
二人はこの地に、英国リンクスの思想を持ち込む。
オールドコース、ノースベリック、ミュアフィールド ── 古典的名ホールの粋が、アメリカ南部の内陸に散りばめられていった。
オールドコースの戦略、ミュアフィールドの起伏、ノースベリックの妙。
それらがそっくりの姿ではなく、土地に合わせて形を変え、息づくことになる。
コースが半ば姿を現した1932年、マッケンジーは「アメリカン・ゴルファー」誌に、理想のコース観を綴っている。
模写ではなく、最良の特性の抽出。
チャールズ・ブレア・マクドナルド以来、アメリカの設計が古典に学んできた姿勢を、二人はさらに推し進めた。
名ホールをそっくり再現するのではなく、その精神だけを抜き取り、自然の地形に委ねる。
従来の常識から際立ったオーガスタの個性は、この一歩の先にある。
設計家の図面、球聖の試打
コースの骨格を描くのは、マッケンジーの仕事だった。
13番パー5などは、博士が思い描いたままの姿で実現し、いまも生き続けている。
一方、土地の造成が進むあいだ、ジョーンズは幾度もその地に立ち、自ら球を放った。設計家の図面と、球聖の試打。二つが重なって、コースは輪郭を得ていく。
支えていたのは、互いへの敬意だった。
マッケンジーは、ジョーンズが古典的名ホールを記憶し分析する力に驚き、工学を修めた頭脳がもたらす実際的な知識にも一目置いた。
ジョーンズは、サイプレス・ポイントで証明されたマッケンジーの力量に敬意を払う。
並の相手を寄せつけない、孤高で我の強い設計家でさえ、球聖の前では耳を傾けた。
一方が図面を引き、一方が地面の上で確かめる。
知識と経験への対等な信頼が、二人の分業を支えていた。
海のうねりを宿した土地
オーガスタの地形は、大きなうねりのなかにある。
2番グリーンの背後から見渡せば、巨大な鯨が背を泡立てているようだ、と金田氏は書く。
英国にもアイルランドにもないこの大ぶりな起伏は、英国からオーストラリア、ニュージーランドを経てアメリカへ渡ったマッケンジーが、船旅で見た太平洋の大波だったのかもしれない。
ラフは、ない。
グリーンは固く、速い。バンカーは、当初の構想の36から27へと減らされ、碁の名人が石を置くように、熟慮の末に配された。
少ないバンカーの代わりに置かれたのが、大きなマウンドである。
8番グリーンを囲む起伏は、ミュアフィールドの17番に着想を得たものだった。
人の錯覚を利用して距離感を狂わせる、戦場仕込みの発想が随所に効いている。
コースが問うのは、心と技と体 ── プレーヤーという人間そのものだった。
その設計の原理を一つずつ解くなら、博士自身が遺した理念にあたるのが早い。
マッケンジー13カ条 ── ゴルフコース設計の不変の原則
完成を見ずに
コースが仕上がっていく一方で、マッケンジーの姿は、オーガスタになかった。
健康が許さなかったのか、自らの仕事を終えたと考えたのか、理由は分からない。
1934年、博士は、自身が設計したパサティエンポの6番ホール脇のコテージで、その生涯を閉じる。
完成したオーガスタを、ついに見ることはなかった。
博士は、著書のなかにこう書き残している。
英国の古典的名コースの心を、アメリカの内陸によみがえらせたオーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブ。
それは、美しい音楽のように、世界中のゴルファーの心で育ち続けている。
ジョーンズが存命のあいだ、コースはマスターズのために100カ所を超える手直しを受けた。
年ごとに難度を増し、世界の名手を試し続けた。
それでも、二人の巨匠が定めた設計の原点は、少しも損なわれていない。
人の手が造ったコースでありながら、その根には「神との合作」とも呼ぶべき、セント・アンドリュースのゴルフ精神が宿っている。
森の中に立ち、うねるフェアウェイと固いグリーンを前にしたとき、パトロンは、球聖と設計の巨人が交わした長い対話の、その続きを聞くのではないだろうか。
参考文献
- 迫田耕 訳『マスターズを巡る物語 マッケンジー博士の「ゴルフコース設計論」収録』Choice選書、2021年
- Masters Tournament Official, https://www.masters.com/
2026年6月更新

