マスターズを創った男 ── ボビー・ジョーンズ、引退の先にあった生涯

1930年11月13日。
ボビー・ジョーンズはペンを取り、ワーナーブラザースとの契約書にサインした。
21巻のゴルフ教則映画。
これにサインした瞬間、彼は競技ゴルフ界のすべてのアマチュア資格を失う。
28歳。グランドスラムを達成してから、わずか2ヶ月後のことであった。

本稿は、ジョーンズが頂点を去ったあとの、もう一つの生涯を描く。

フリー宣言

ワーナーとの契約に先立ち、ジョーンズは「声明文」を発表した。
事実上の引退表明である。
来春の全米オープンにエントリーする時期が迫っているからには、何が問題で、何をやることになるか、ファンに理解してもらう必要があった。

「私の判断と良心の命ずるところに従って行動したつもりなのだ」
── ボビー・ジョーンズ「声明文」1930年11月(杉山通敬『マスターズを創った男』廣済堂出版、p.179)

当時の全米ゴルフ協会は、アマチュア資格の規定がきわめて厳しかった。
運動具店に勤めた者がアマ資格を失い、スポンサーから誤って物を受け取った者が資格を奪われた例もある。
映画への出演で報酬を受ければ、ジョーンズも資格を失う。
それを潔しとせず、しかし「プロ」に転向するつもりもない。
アマでもプロでもない、第三の道。「フリー」な立場を、彼は自らに引き受ける。

肩書のための競技ではなく、判断と良心のための競技。
28歳の青年は、自分の人生にこういう線を引いた。

杉山通敬の評伝は、孔子の言葉を引きながらこれを評する。

「おのれのなおかえるところに従って、矩を踰えず」
── 本来なら70歳に至って到達する境地である。

引退と同時に、ジョーンズには二つの計画があった。
コースをつくること。そしてトーナメントを開くこと。
ニューヨークの投資銀行家クリフォード・ロバーツとペアを組み、舞台は南部ジョージア州オーガスタに定まる。

マッケンジー博士

設計者選びに、ジョーンズは迷わなかった。
1870年、英国ヨークシャー生まれのアリスター・マッケンジー博士。
医者として始まり、コース設計家に転身した変わった経歴の男である。
作品は多くないが、カリフォルニアのサイプレス・ポイント・クラブが全米屈指の名コースとして評価されていた。
ジョーンズはそこを訪れ、感動した。

マッケンジーの設計哲学はこうだった。
ボールを打つ前に、どのようなショットを打つかをプレーヤーに考えさせる」。
そのためにペナルティを強いるハザードを極力なくし、戦略的価値の高いハザードを設ける。
ジョーンズの「オールド・マン・パー」の発想と、これは同じ向きを向いていた。
プレーヤーが頭を使う余地のあるコース、というかたちで。

二人がコースの理想としていたのは、セント・アンドリュース・オールドコース。
シーサイドのリンクスである。
それを地形の異なるジョージアの内陸で、可能な限り再現する──というのが、彼らの志だった。
気候も土壌も植生も違う。それでも、自然の起伏と起伏のあいだに残る空気のようなものを、もう一度立ち上げたい。

舞台はジョージア州オーガスタ、ベール男爵が19世紀に開拓した果樹園の跡地。
365エーカー、148万平方メートルに及ぶ広大な土地で、樹木は豊か、起伏も自然だった。
1910年に当主が亡くなって売りに出たもので、ジョーンズはひと目見て「だれかがゴルフコースを造ってくれるのを何年も前から待っていたようではないか」と思ったと、杉山通敬は記している。
マッケンジーは現地に渡り、ジョーンズと並んで歩いた。
コースの完成は1932年12月、翌1933年1月に正式開場する。

楽しみを与えるコース

「ゴルフコースの第一の目的は楽しみを与えることである。それも可能な限りたくさんのプレーヤーに楽しまれるものでなければならない」── これがオーガスタの設計理念であった。

ジョーンズとマッケンジーが具体的に意図したのは、こうだ。
ティーから豪快にキャリーで超えるようなホールも必要だが、同時に非力なプレーヤーにも「上手なルート」を与えられねばならない。
グリーンには複数の入口がある。難しいピン位置にも、易しいピン位置にも、それぞれの正解がある。
ハザードはペナルティの装置ではなく、プレーヤーに「考えさせる」ために置かれる。

長すぎず、短すぎず。技量の異なる者同士が、一緒にゴルフを楽しめる設計。
これがオーガスタの「楽しみ」だった。後年、毎年4月のマスターズで、世界最高のプロたちが思い思いの戦略でコースを攻める姿を見るたびに、設計の根底に流れる思想が見えるはずである。

会員のあいだから「ボブが作ったコースで全米オープンを開催しては」という声があがるが、USGAとの調整を考えれば自分たちで主催するほうが早い、という結論に達する。
トーナメントの構想はここから動き出す。

1934年3月、第1回大会

第1回大会は1934年3月22日から25日までの4日間。
招待選手は、英米のオープンとアマの優勝者、ウォーカーカップ代表、全米プロ対抗戦の代表選手たちであった。
各国の名前を集めた、招待制の小さな大会である。

ジョーンズ自身が、選手としても出場することを決めていた。
練習不足は自覚していたが、彼が引いたのは『論語』の一節だった。

「友あり遠方より来たる、また楽しからずや」
── 『論語』学而第一(杉山通敬上掲書、p.217の引用による)

集まってくれた友人たちと、もう一度トーナメントを楽しみたい。それが、マスターズに対する彼の最初の動機だった。

ロバーツは大会名を「マスターズ」と提案したが、ジョーンズは反対する。
「マスター」を冠するのは不遜だ、と。
自分が「名人」だとか「名匠」だとか名乗るような響きを、彼は受け入れがたく感じた。
結局、当初の正式名は「オーガスタ・ナショナル・インビテーション・トーナメント」となる。
ながく、即物的な名前であった。

第1回大会の優勝者はホートン・スミス、72ホールのスコアで「284」。
ジョーンズ自身は10打差で大会の半ばに沈み、ホスト役の名選手は、選手としては期待に応えられなかった。
だが、これがマスターズの始まりであった。
観戦の人々も、出場した選手たちも、来年もまた集まろう、という気持ちを胸に去った。

財政は決して楽ではない。入場料は練習日1ドル、4日間競技2ドル、通し券5ドル。
賞金総額5,000ドル、優勝者1,500ドル、最下位の12位でも100ドル。
会員から「お布施」を募って運営する、手作りの大会だった。
第二次大戦の中断を挟んで、それでもマスターズは続いていく。

マスターズという名

第1回大会では、ほとんどのメディアが正式名称の「オーガスタ・ナショナル・インビテーション・トーナメント」という長くて無味乾燥な名称を使っていた。
新聞・雑誌の編集者にとって、これは使い物にならない名前である。
ところが第2回大会になると、各メディアが一斉に「マスターズ」と呼ぶようになる。
1936年にはマスターズ以外の名称を使う者はいなくなった。

ジョーンズが折れ、「マスターズ」を正式名称として採用するのは1938年からである。
本人の謙虚を、メディアと大衆の熱が押し切ったかたちだった。
今に至るマスターズの名は、本人が望んだものではなかった。皮肉だが、これも一つの遺産である。
創設者の意に反して定着した名前が、創設者の意図したコースとトーナメントの精神を、世界に運ぶことになった。

戦中の大尉

1942年、戦争がトーナメントを止めた。マスターズは1943年から1945年まで中止される。
戦時下のオーガスタは管理人手不足のため、芝刈り機の代わりとして牛の群れが放牧されていた。
「マスターズの聖地」が、3年間、牛の放牧場と化していた。

ジョーンズ自身も軍務に就く。
1942年6月、アメリカ空軍情報局大尉に任ぜられた。すでに40歳。
最前線に出る義務はなかったが、彼は徴用にサインし、必要とあらばどこへでも赴く覚悟だと、評伝には伝えられている。

1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦。
その翌日、ジョーンズは現地に入っている。連合軍最高司令官は、ドワイト・D・アイゼンハワー。
ゴルフ史の英雄が、史上最大の作戦の翌日にその戦場へ降り立ったという事実は、彼の人格を語る上で外せない。

ジョーンズは2ヶ月間にわたって前線任務を果たし、1944年に大佐に昇進、戦後、退役する。
マスターズは1946年に再開される。
3年間の空白を経て、四月のトーナメントは再び動き始めた。

アイゼンハワーの油絵

戦後、二人の縁は続く。
1948年4月13日、アイゼンハワーがオーガスタを初訪問した。
コースもクラブハウスも空気も、すっかり気に入って、11日間も滞在したという。
後に、彼は正会員として迎えられる。

1953年からはアメリカ合衆国大統領となるアイゼンハワーは、その任期中も「オーガスタでの休日」を楽しむことを無上の喜びとした。
日曜画家でもあったアイゼンハワーは、ジョーンズの全盛期のフィニッシュ姿を油絵にして贈っている。

元帥と退役大佐。大統領と一介のクラブ会員。
地位の差を超えて、二人を結んだのは、ゴルフという共通の言葉だった。
戦場の最前線で結ばれた縁が、戦後のオーガスタで結びなおされた、と評伝は伝えている。

セント・アンドリュースの10分間

1958年、セント・アンドリュース市はジョーンズを名誉市民に推した。
ジョーンズはすでに病に冒されており、車椅子の人となっていた。

それでも彼はセント・アンドリュースに渡る。
1700人を収容する会場は、入りきれない市民で街路まで埋まった。彼は10分間、原稿を持たずに語った。
語ったのは、勝利の記憶ではない。「友」と「友情」についてだった。

友情は愛にほかならない。真の友情は敬意にもとづく。
「君は私の友だ」と言う時、忠誠と献身の永続を私は誓っている。
そう述べたあと、ジョーンズはセント・アンドリュースの市民に向かって、この街の一員として迎えてくれた喜びを語った。
セント・アンドリュースの思い出をなくして自分の一生は考えられない。それは生き生きと残るであろう、と。

スピーチが終わり、人々が立ち上がって英国国歌を歌い、ジョーンズが電動カートで会場を去ろうとしたとき、街には「Will Ye No Come Back Again」── 邦訳すれば「君、再び帰り来ます」──
というスコットランド民謡の歌声が湧き上がった。
少年期にスコアカードを破って棄権した青年が、半世紀後、街全体に見送られて、その地を去った。

二度と、彼はセント・アンドリュースに戻ることはなかった。

追悼碑

晩年のジョーンズは、脊柱空洞症という難病に侵されていた。
脊髄に液体がたまる空洞ができ、激痛ののちに麻痺を引き起こす病である。
最後の数年、彼は車椅子の人となる。
だが、人前ではゴルフを語り、本を書き、マスターズの式典に姿を見せた。

1971年12月18日、ジョーンズはアトランタで生涯を閉じた。69歳。

訃報を受けたセント・アンドリュース市と、ロイヤル・アンド・エンシエント・ゴルフクラブは、合同で追悼碑を建立した。市の紋章とR&Aの紋章を左右に配し、〈感謝と敬意の記念〉と刻む。
その下に、大きな文字で名が刻まれた。

ROBERT TYRE JONES 1902-1971

最下段には、短い献辞がある。

「その技量において比類なく、その精神において騎士道的であったひとりのゴルファー」
── セント・アンドリュース市とR&A 合同追悼碑(杉山通敬上掲書、p.247より要約)

技量と精神。
この二つを並列で書き残すしかなかった人物が、20世紀の前半に、たしかにいた。

四月のオーガスタを訪れる人々は、いまも知らず知らずのうちに、彼の遺産の中を歩いている。
グリーンジャケットの色、パトロンと呼ばれる観客の呼称、コースの設計思想、トーナメントの招待制、そして名づけを最後まで拒んだ「マスターズ」という名──。

なぜ、毎年四月のあの一週間に、世界の人々が心を寄せるのだろう。

それはおそらく、競技を超えたゴルフが、そこにあるからだろう。
28歳で頂点を去り、四十年をかけてもう一つの生涯を生きた男が、世界に贈った、四月のしるしなのかもしれない。


参考文献

主要参考文献

  • 杉山通敬『マスターズを創った男 球聖ボビー・ジョーンズ物語』廣済堂出版、1998年

書籍内引用

  • ボビー・ジョーンズ/O.B.キーラー著、近藤経一訳『ダウン・ザ・フェアウェイ』(杉山通敬上掲書中の引用による)
  • ボビー・ジョーンズ著『Golf is my Game』(杉山通敬上掲書中の引用による)

補足参照

  • Wikipedia「Bobby Jones (golfer)」「Augusta National Golf Club」「Alister MacKenzie」「Masters Tournament」
  • マスターズ・トーナメント公式サイト 大会史
  • オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブ公式サイト 沿革

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最終更新:2026年5月28日