球聖ボビー・ジョーンズ ── 頂点までの28年

1930年9月27日、フィラデルフィア郊外のメリオン。28歳のアマチュア、ボビー・ジョーンズが対戦相手ユージン・ホーマンスを8&7で下した瞬間、年間グランドスラムは達成された
英米のオープンとアマチュア選手権、四つのナショナル・タイトルを一年で独り占めにする、前人未踏の偉業である。
本名ロバート・タイア・ジョーンズ・ジュニア、職業は弁護士。生涯一度もプロに転向することなく、純粋なアマチュアの選手として、彼はゴルフ史の頂きに立った。

メリオン、1930年9月

ジョーンズは1930年のシーズン当初から、その年の四大競技すべてを獲ることを心に決めていた。
妻のメリー、父のジョーンズ・シニア、長年の同行者である伝記作家O.B.キーラーの三人に、ジョーンズはその目標を打ち明けている。
「ジョーンズならやってのけるだろう」という願望と、「いや、ジョーンズでも不可能だろう」という危惧。両者が交錯するなか、企てはスタートを切った。

賭け屋ロイド社が提示した「グランドスラム達成」のオッズは50対1。
冷静に見れば、不可能に近い数字だった。
杉山通敬は、現実的に照らせば「120対1」程度ではないかと評している。

5月、セント・アンドリュース・オールドコースで全英アマを制し、6月、ロイヤル・リヴァプール、通称ホイレイクで全英オープン、7月、ミネソタのインターラーケンCCで全米オープン。
三つを獲った男が、9月、メリオンに乗り込んだ。

決勝戦の対戦相手はユージン・ホーマンス。ハーバード大学を卒業したばかりの若者であった。
ティーオフは9時30分、観衆は18,000人。警備役の水兵に守られながら、ジョーンズはコースを進む。

午前の18ホール、ジョーンズは「72」、ホーマンスは「79」。差は7アップ。
午後の数ホールでさらに2アップを加え、差は「9」に広がった。
残り7ホールの11番、378ヤードのパー4。ホーマンスの最後のパットがカップに向かって転がっているうちに、ホーマンス自身が握手を求めてきた。
あらゆる緊張から解き放たれ、求めつづけていたリラックスした気分が突然身に勢いてくるのを感じた、と後年ジョーンズは『Golf is my Game』に書く。ジョーンズの勝利。年間グランドスラムが完成した瞬間であった。

優勝後、ジョーンズは表彰式で短いスピーチをする。
引退するか競技ゴルフを続けるか決めかねています、と。引退の明言は、この日には避けられた。
彼が正式に競技から退くことを表明するのは、ここから2ヶ月後、ワーナー・ブラザースとの映画出演契約に関する声明文においてのことになる。

ジョージア州アトランタの少年が、いかにしてこの一日に辿り着いたか。

本稿は、その28年の道のりを描いている。

アトランタの少年

ジョーンズの生年月日は1902年3月17日、生地はジョージア州アトランタ。
ボビーは5歳になって数カ月後の初夏、フランク・ミードという2歳年上の少年と空き地でクラブを振り始めた。

1908年の夏、スコットランドのカーヌスティから、スチュアート・メイドンというプロがイーストレイクGCの専属プロとして赴任してきた。
当時6歳のボビーは、両親のあとを追ってカントリーに通い、メイドンのスウィングを盗み見ては覚えていった。

「これは私達のゴルフライフのなかで、もっとも幸運な出来事だった」
── ボビー・ジョーンズ/『ダウン・ザ・フェアウェイ』近藤経一訳(杉山通敬『マスターズを創った男』廣済堂出版、p.11

球聖と呼ばれることになる少年の幼年期は、お行儀のよい優等生のそれではなかった。
少年時代のジョーンズはしばしば「カンシャク玉」を爆発させては人々のひんしゅくを買っていた、と杉山通敬は記している。

6歳の時、同じ年頃のフランク・ミード、ワーリー・ライアン、のちに全米女子アマに3勝するアレクサ・スターリングと4人で、6ホールの競技が行われた。
クラブの大人たちがやらせてみたものである。これにジョーンズが勝った。
賞品は、わずか3インチほどの小さなカップであった。その夜、少年はそのカップを抱いて寝床に入る。
120個のカップを手にした後年も、最初の小さなカップだけは、いつまでも手元に置いていつくしまれた。
なお、9歳のとき、父親が所属するアトランタ・アスレチッククラブのジュニア選手権で、ジョーンズは2位に入っている。

1916年、14歳。フィラデルフィアのメリオンで開催された全米アマに、ジョーンズは初出場した。
1916年メリオンは、後にグランドスラムを締めくくることになる、その同じコースである。

スウィングは早くから完成していた。

ジョーンズとプレーしたことのある宮本留吉プロが、その印象を、こう語っている。

「すたすたとボールの所まで歩いてきて、立ち止まったかと思うと、もう打っている」
── 宮本留吉プロの言葉(杉山通敬上掲書、p.15)

流麗で、迷いがない。
そのフォームは、後の世になって「詩化されたスウィング」と呼ばれることになる。

七年の沈黙

14歳で全米アマの舞台に立った少年であったが、メジャー初優勝に至るには、それから7年を要した。
1916年の初出場から1923年の初優勝まで、ジョーンズは勝てなかった。書籍はこの時期を「大叩きの教訓」と呼ぶ。

ティーンエイジャーのジョーンズは、決して我慢のきく少年ではなかった。
1921年の全英オープン、セント・アンドリュース・オールドコース。
第3ラウンドのアウトで「46」を叩き、10番でダブルボギー、11番でも崩れた時、19歳のジョーンズはボールを拾い上げ、スコアカードを破り捨ててコースを去った。
後年、彼が最も愛するようになるオールドコースで起こった「汚点」である。
USGA会長から「貴君の短気が改まらないかぎり、USGA主催の競技には二度と再びプレーすることは許されないであろう」という戒告の書簡が届いたのもこの時期のことであった。

学業も並行して進めていた。
ジョーンズはジョージア工科大学で機械工学を修めたのち、22年9月にハーバード大学に再入学、文理学士課程を1923年2月に修了した。のちに弁護士の資格も得ている。
一年のうちトーナメントに費やせる時間は限られ、ゴルフ漬けの青春ではなかった。就職したのは幼いころからのゴルフ仲間、ペリー・アデイアが創業した「アデイア不動産・トラスト」であった。

1922年の全米オープン。
残り2ホールを4、4で上がれば優勝という場面、ジョーンズの17番のティーショットがフェアウェイサイドのバンカーを越え、樹木におおわれた小道の上で止まった。
バウンドは不規則だった。砲台グリーンの手前に止め、そこからホールアウトするまで3打を要する。
結果は2位、わずか1打差で優勝を逃した。
この敗戦から、彼を象徴する言葉「運不運はもっと平等に作用するものだ」が生まれた。20歳の青年が、すでにこの達観を身につけていた。

翌1923年7月、ニューヨーク・ロングアイランドのインウッドCCで、ジョーンズは4度目の全米オープン挑戦を迎える。
前評判は決して芳しくない。
社会人としてサンデーゴルファーになっていた彼は、もはや勝てないだろうと見なされていた。

第1ラウンドは「71」、第2ラウンドは「73」、第3ラウンドで「76」。
54ホールを終えてジョーンズはトーナメントをリードしていた。だが、最終ラウンドで彼は崩れる。
16番で第2打をOBして大叩き、17番もボギー、18番でも痛恨の一打。
ボビー・クルックシャンクとのタイで翌日18ホールのプレーオフへ持ち込み、そのプレーオフを制してついにメジャー初優勝を遂げた。21歳の夏。

沈黙の七年が、ようやく明けた。

ウースターの一打

1925年の全米オープンは、マサチューセッツ州ウースターで行われた。
第1ラウンドの11番ホール。第2打が長く伸びた芝の中に飛び込み、そこからのアプローチ時に、ジョーンズはボールが動いたことに気付いた。

役員は離れた場所にいた。誰も見ていない。
それでもジョーンズは「5」を申告し、1打罰を受け入れた。彼にしか判断できないことだから、と。

その「1打」が結果を決めた。
72ホールを終えてジョーンズはウィリー・マクファーレンスと同スコアで首位タイ。
翌日のプレーオフへ持ち込み、再延長18ホールも戦って、結局1打差で敗れた。
試合後、「あなたは正直すぎます」と言ってジョーンズを非難する者があった、と書籍は伝えている。
そして1年後、キーラーがジョーンズに尋ねている。自ら申告して罰したくなかった事例が他にもあるよね、と。

ジョーンズが返した答えが、その人格を象徴する一語として残っている。

「あなたは銀行強盗をしなかったからといって、人をほめたりしないでしょう」
── ボビー・ジョーンズ(杉山通敬上掲書、p.81)

ルールを守るのは、褒められるべき美徳ではなく、当たり前のこと。銀行強盗をしないことが当たり前であるように。

書籍はこの発言に続けて、ジョーンズの「正直にプレーすること」という言葉も伝えている。
ゴルファーとして為すべき、ただひとつの方法。

スポーツマンシップという言葉が、近年、形だけのものになりかけていると言われる。
ジョーンズの時代から1世紀。試合をめぐるルールはきわめて精緻になり、ビデオ判定も、計測機器も整った。
それでも、誰も見ていない一打を、自分だけが知っている。
その時に、どう振る舞うか
ゴルフという競技が、なぜいまも紳士のゲームと呼ばれ続けるか。その源流のひとつが、ウースターの11番ホールにある。

グランドスラム

1923年から1930年までの7年間。
ジョーンズはアマチュアの身でありながら、メジャーを年に1勝、2勝のペースで重ねていく。社会人としての日々を送りながらの戦績である。

1927年、25歳。彼はO.B.キーラーとともに、自伝的な技術書『Down the Fairway』を著した。
日本では1934年(昭和9年)に近藤経一訳『フェアウェイの彼方へ』として初訳が出版され、のちの改版以降は『ダウン・ザ・フェアウェイ』のタイトルで版を重ねている。
1989年には菊谷匡祐の新訳も出ている、半世紀以上読み継がれる古典である。
スポーツライターの父と呼ばれるグラントランド・ライスは、この本に短い「まえがき」を寄せ、ジョーンズの技巧の背後には「性格があり、魅力があり、勇気があり、高い知性がある」と評した。技量だけでは語れないゴルファーだ、と。

そして、1930年。

5月、セント・アンドリュース。全英アマ。
9年前にスコアカードを破って棄権したオールドコースに、青年は戻ってきた。少年期に振り捨てたコースで、青年は優勝する。
和解と勝利が、ひとつの大会のなかで重なった。

6月、全英オープン、優勝。
7月、全米オープン、優勝。
そして9月、メリオンで全米アマを制し、四つを束ねた。
それまで誰もなしえなかった偉業を、28歳のアマチュアが、社会人の傍らで成し遂げた。
当時の新聞は「空前の騒ぎ」と報じている。ジョーンズはアマプロ合わせて13人の相手と対戦し、ただの1回も負けていない。

28歳、なぜ去ったか

頂点で去る。これが彼の選択であった。

メリオン優勝直後の表彰スピーチでは、引退の明言は避けている。
だが、その2ヶ月後の11月13日、ジョーンズはワーナー・ブラザースと映画出演の契約を結ぶ。
21巻のゴルフ教則映画『How I play Golf』。これにサインすれば、当時の厳格なアマチュア資格規定からすれば、ジョーンズは自動的にその資格を失う。

アマであるかプロであるか、ではない。彼は「ひとりのゴルファー」として、ステータスを超えた立場を選んだ。
私の判断と良心の命ずるところに従って行動する、というのが彼の声明文の核であった。
これが事実上の引退表明となる。

日常生活の優先順位は、家庭、仕事、ゴルフ。
ジョーンズは弁護士事務所を構え、アトランタの家庭に戻る。

杉山通敬の評伝には、孔子の「おのれのなおかえるところに従って、矩を踰えず」が引用されている。
本来70歳に至って到達する境地に、ジョーンズは28歳にして到達した、と。

7月のインターラーケンで全米オープンを獲った直後、ロッカールームでキーラーに、ジョーンズはこう告白している。
数年前からゴルフがビジネスマンライクにのし掛かるように感じるようになった
人から勝つことを期待され、好成績が求められる。それが価値あるものかもしれないが、自分はもう疲れてしまった、と。勝つことの先にあるものを、彼はすでに見ていた。

頂点までの28年は、ここで閉じる

引退の先で、彼はもう一つの生涯を生きる。
マスターズという、四月のトーナメント。それを創った男の物語は、稿を改めて記す。

参考文献

主要参考文献

  • 杉山通敬『マスターズを創った男 球聖ボビー・ジョーンズ物語』廣済堂出版、1998年

書籍内引用

  • ボビー・ジョーンズ/O.B.キーラー著、近藤経一訳『ダウン・ザ・フェアウェイ』(杉山通敬上掲書中の引用による)
  • ボビー・ジョーンズ著『Golf is my Game』(杉山通敬上掲書中の引用による)

補足参照

  • Wikipedia「Bobby Jones (golfer)」「Wall Street Crash of 1929」「Grand Slam (golf)」
  • USGA(全米ゴルフ協会)「Looking Back…1930 U.S. Amateur At Merion」
  • Encyclopædia Britannica「Bobby Jones」

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最終更新:2026年5月28日